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| 前々日の22日に開催した「モーツァルトのひみつ」と題するミニトークコンサートのスナップ。廻さんはこの日の午後東京から到着し、リハーサルを終えてからの出演というわけで、かなりのハードワークでした。会場はお菓子やさんのルタオ、お二人の興味深いお話をうかがうことができました。 |
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| その後は、お疲れさまということで、清水さん行きつけの飲みやさんで乾杯。でも本番前ということで、お二人ともアルコールはかなり控えめのようでした。 |
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| 演奏会当日のスナップ。今回の譜めくり役は村上由希子さんにやっていただきました。 |
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| すべての演奏を終えておふたりともにっこり。今回の衣装はアプローズ453の高野るみさんのプロデュースによるものとか。 |
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| 打ち上げは、毎度使わせてもらっているバインで開催。このなかには東京からの一人、札幌からの三人が含まれています(演奏者と調律師は除く)。みなさんありがとうございました。 |
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アンコールは歌劇「魔笛」から夜の女王のアリア「復讐の心は地獄のように胸に燃え」が演奏された。清水さんと廻さんは、なるほどこの曲を最後にとってあったのだった。夜と闇を支配する夜の女王が宿敵ザラストロに娘を奪われた、それも身柄のみならず徳の高い善者たるザラストロに精神をも奪われたのだ。悪者としての夜の女王が復讐を誓い全力で歌い上げるコロラトゥーラ・ソプラノ最大の聴かせどころである。多分にこのアリアを役所のソプラノが失敗したとしたら、その晩の歌劇「魔笛」は終演のカーテンを待たずして崩れ去ってしまうのではと思われるほどの曲で、とびっきりの人気曲でもあり、しかも難曲だ。それだけに、成功した暁にはこれほどかっこいい曲も数少ないのではないだろうか。シリーズ最後の3回目にこの曲を取り置いてあったのだった。初めてこの曲を聴いたのが、実はオペラに興味を持ち始める、きっかけでもあった。「魔笛」の抜粋盤の中に入っていたエリカ・ケートという人の歌だった。この人の声は鋭く強靭で、高域はまるでトランペットのように聴こえ、これには全く仰天したものだった。曲の性格ゆえにか、このアリアはトランペットで演奏されることもある。コロラトゥーラ・ソプラノがまさにトランペットのように歌う曲をだからといって、トランペットがそれを楽々と吹いてしまっては面白くもなんとも無いのだ。来るかくるか闇を劈くような鋭い超高音、どうだ・・ってな、ところに、スリリングな面白さをはらんでおり、鍛えられた人間の声を聞く醍醐味があるというものだ。ヴァイオリンでこの曲を弾くことが技術的にどの程度難しいことなのかは私には分からないが、曲の性格を表現するとなるとこれはとても難しいのではないかと思う。このような曲ばかり歌い続けていては歌手生命が短くなるといわれるコロラトゥーラのソプラノ歌手がその限界に挑む至難な曲を、人間の声としては超高域の音を出すという、その困難さを課せられていない器楽での演奏ではその表現が逆の意味で難しいのではないだろうか。例のトランペットの部分では、なるほどピアノの高音がちゃんとシャープなメタリックカラーを補強していたし、力強く全身で歌うヴァイオリンの復讐のアリアはいつしか奏者を夜の女王に変身させていた。ハンブルクの国立歌劇場で身体に叩き込んだ自信と確信を持って歌うヴァイオリンはもう、見事というほか無い。その歌は歌手以上に確かなのだ。アプローズメンバーの今野さんは今回のアンコール演奏に際して、前2回と違い、清水さんが何も話さず、アンコール曲を演奏したことに「なぜでしょう?・・・」と、回答を見出せないでいた。それは私とて同じであったが、今思うにあの時、清水さんはすでに夜の女王だったのではないだろうか。夜の女王が演奏前に軽々しくも庶民に向かって直接に話しをする、などということは、これはできない話だ。そうやって、演奏しだしたのが、あの復讐に燃えた厳しくも熱く血の通ったアリアだったのだ。
さて、コンサートの最初に戻ります。演奏が始まった。最初の曲が始まると、ふと、あぁこれでこのシリーズもおしまいか、と思うと非常に名残惜しい気持ちがじわりとわいてくる。まだコンサートが始まったばかりなのに、だ。3月から続いてきたこのシリーズも今日で終わりかと思うと、自然と特別な何かがただよう。今回の演奏も前2回の演奏とはまた違っていた。出てくる音も違えば音楽も違うのだ。モノトーンの中に繊細にして明確な生命感が宿り、時折モーツァルトのきらめきと微笑が表れる。二つの楽器が前2回以上にぴったりと整合性を見せる。これほど話が合って良いものなのか、贅沢な疑問がよぎる。3回目のアンサンブルともなるとこんな風に熟成してくるものなのか、それとも曲の性格上の問題なのかはわからないが、毎回、形を変えて提供される音楽に、とにかく、楽しませていただいた。そして客席も静寂そのものであった。清水さんのヴァイオリンは穏やかないぶし銀をベースにしてはいるが、今回はその中から微妙に変化する色彩を放ちながら、変わらぬ格調高いモーツァルトの歌を奏でる。その、安定した音楽と技巧の上にはもはや安心感さえ漂う。廻さんのピアノは抑えても自然とあふれ出るような艶やかな音楽が魅力と思うのだが、この日は何故か、そこのところを包み隠したままのようだった。実は楽しみにしていたのだ。ほらっ!とバッグの中から熟れた甘いオレンジをころがしてくれるように、鮮やかな色彩を見せてほしかったのだ。しかし、そうしないのもまた廻さんの多彩な音楽表現の一面なのだろう。仕様が無いから、この日はそのところをじっくりと楽しませていただいた。
ところで、今回のコンサートには、シリーズの3回全てに東京から駆けつけてくれた調律の水島さんの大きな存在があった。その水島さんが休憩時間に「音は水物だから・・・」ポツリと話したときの謎の微笑みには不思議な説得力と、さらなる疑問へとつながる「ひみつ」が隠されていたように思う。ピアノの調律調整のみならず演奏者のステージでの立ち位置のアドバイスなど、重要な役割を果していただいた専門家の言葉だけに重みがある。後半の1曲目、ソナタハ長調K.303の2つの楽章は基本的に前半の表現を引き継いでいたように思うが、いよいよプログラム最後の曲は、これも名曲ソナタヘ長調 K.526であった。これは、文句なし名演奏であった。モーツァルトのヴァイオリンソナタとしては、最後に作られた曲だという。ノーベル賞の小柴さん推薦の1曲でもある。名曲を名曲として私たちが聴くことができるのは、名演奏があって初めて可能なことである。この日の演奏でも、他の3曲とは明確に異なる何か、たとえば、コクと深みが増して馥郁とした香りまでが漂ってくるようなところがあって、シリーズを通してのプログラム最後に置かれたその存在感と位置づけを演奏が示していた。
「序破急」という、日本の伝統的な音楽や舞台芸術の形式があるが、思うにシリーズ第1回目のコンサートはいわば「序」であり、2回目は「破」に当てはまることは確かと思う。しかし、この3回目ではどう考えても「急」には当てはまらなかった。彼らの選択は「永」ではなかったか。そもそも、形式の選択などという作業は存在しなかったのだろう。「序破急」ではなく「序・破・永」そう、最後は永久(TOWA)に続く、あるいはその次に続くものの世界の表現、そんな気がした。ゆったりとした河の流れのような、なんと自然なモーツァルトであったことか。ありがとうございました。
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