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アプローズ秋の音楽祭2002
ヤンドー・プレイズ・ショパン 演奏者プロフィール演奏曲メモショパンのこと

ショパン1
Fryderyk Chopin
(1810-1849)
▲ジョルジュ・サンドの鉛筆画による31歳のショパン



ショパン2
Coutureの描いたショパン(ベルサイユ宮殿蔵)
フリデリク・ショパン(1810-1849)
 1810年ワルシャワ近郊の小さな村、ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれた。父は生粋のフランス人だった。一家はショパンの生まれたその年の秋ワルシャワに転居、4歳からピアノを学び、すぐに才能を発揮、即興演奏にたけ、8歳で公開演奏を行い、この頃からすでに作曲を始めた。13歳から和声法と対位法を学び16歳でワルシャワ音楽院に入学、フンメルやパガニーニなど著名な演奏家の音楽会から刺激を受けた。1829年7月、音楽院を卒業してすぐ開催したウィーンでの演奏会は成功を収め、音楽家としての自信を深めてヨーロッパで広く活動する希望を抱くようになる。1830年、革命的気運がみなぎる母国ポーランドを離れ、ウィーンに旅立つが、ワルシャワ蜂起の知らせでウィーンの空気は反ポーランド的となり、ウィーンでは無為の生活を余儀なくされた。1831年ウィーンを去り、シュトゥットガルトを経てパリに渡る。パリでは偶然にもピアノの弟子を紹介され、生活苦は一挙に解消、社交界の人気者となり、リスト、メンデルスゾーン、ハイネなどとも知り合い、作曲を進めていった。リストの紹介で26歳のときに社会主義の傾向をもつ女流小説家ジョルジュ・サンドと知り合い、パリでの好奇の目を逃れて1836年10月からマジョルカ島で共同生活を始めるが、37年5月にマルセーユを経てノアーンのサンド邸に戻った。その間、結核に侵され喀血するショパンをサンドは献身的に看護した。サンド邸では作曲に没頭、1841年、42年とパリでリサイタルを開催、成功をおさめる。43年33歳ころから健康は悪化、サンドへの嫉妬も高じて神経過敏の兆候を見せはじめ、47年にはサンドとの仲は破局をむかえる。48年にパリでの最後の演奏会を催した後、生活の資を得るためロンドンに渡って演奏活動を行うが、これが病状を悪化させる原因となり、翌49年、パリの家で39歳の生涯を閉じた。

ピアニストとしてのショパン
 1818年から1848年までの30年間にわたるピアニスト人生にあって、サロンなどでの演奏を除いて、ショパンが開催した演奏会は20回にも満たないと言われている。当時はピアノの改良が進み、大音量のダイナミックな演奏が可能になってきた時代だが、リストらの大ピアニストの動きとは逆行するかたちで、身体の病とも関連して自らのピアニズムの追及に没頭していたということらしい。当時の記録によれば、ショパンのフォルテは大きくなく、ピアニシモは更に小さかった。しかしその間のグラデーションには無限の豊かさがあり、まるで虹のようだったという。そのルバートは過度の表現を助長するためではなく、あくまでも厳格なテンポを保ったうえで、最もふさわしいところで、しかもほんのわずかだけ行うものだった。さらにまた、ぺダリングの妙技は誰もまねできないほどで、指先の微妙なコントロールと相まって無数の音色をつくりだしたという。
 とはいえ、ショパンの演奏を力強さに欠けると批判する者もいたし、弟子のひとりグートマンの演奏はショパンとは対極にあったらしいが、ショパンはグートマンを非難してはおらず、それどころかグートマンの演奏に羨望すら感じていると思われる節もあるという。心のうちでは力強い演奏にあこがれながらも、体力的な要因でそれが出来ない、このため独自の高度で特殊なテクニックを編み出したというの真実に近いようだ。

ピアノ教師としてのショパン
 つねに流行の最先端の衣服をまとい、白い絹の手袋を離さず、レッスンを終えると馬車を駆ってサロンへと出かけていったショパンだが、その収入の大半はレッスン料で得ていた。1831年パリに到着したその翌年、ふとしたきっかけでロスチャイルド家のレッスンをするようになってからというもの、貴族の子女はこぞってショパンのレッスンを求めるようになった。その名声にひかれて、フランスのみならず、イギリス、ドイツ、スイス、遠くはノルウェーからも生徒がやってきた。レッスンは1回が45分と決められていたが、興が乗ると時間は延長され、自ら演奏会のように演奏することもしばしばだった。レッスン料はリストやカルクブレナーより高く、1回につき金貨20フラン、出張の場合は30フランだった(当時のオペラの最高席は約12フラン)。
 教え方は実に丹念で、根気よく、生徒が弾きこなせない部分は何度も自ら繰り返し弾いて聴かせた。愚かなだけの反復練習を避け、非常な集中力をもって練習にあたり、聴覚を敏感にさせるというショパンの指導法は、今もってあたらしい。ショパンはまたベルカント唱法に注目し、それをピアノで実現することをめざして、弟子たちにイタリアオペラを観賞するよう勧めていた。
 ショパンは自分の流派をつくろうとはせず、自分の方法を弟子たちに押し付けることもなかった。このためショパンの演奏法の継承者と呼ばれる者はいない。そのかわりショパンの方法は、彼の作品を通じて、時代を越えて、現在も強大な影響力を及ぼし続けている。

(以上、文・田村敏久、「ピアニストとしてのショパン」と「ピアノ教師としてのショパン」の項は、ドレミ楽譜出版社『ショパン・ピアノ名曲辞典』にそのほとんどを負っている)
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