トップページNew Concertトピックコンサート日記アプローズ453自己紹介マリンホール
←New Concert 前の情報 New Concert 新しい情報→

大きくて重たいもの
ぴかぴか光って立派なもの
そうした音楽はあったかもしれない
味わいにどうしてもなじめない
そんな音楽もあったろう
だがしっとりと手になじんで
音楽の体温が染みてくる
そういう音楽はあたろうか
2004年6月5日
マリンホールカルテットは
クラシック音楽の
本当の楽しみを届けてくれた
それは私たちが長いあいだ
望んでも得られなかった音楽
だから奇跡のカルテット
いま本格始動

■2005年3月20日(日) 開場13:30 開演14:00
■小樽市民センター・マリンホール
小樽市色内2-13-5 TEL(0134)25-9900
Program Notes


モーツァルト(1756 - 1791)
弦楽四重奏曲 第21番 二長調 K.575 「プロシア王第1番」

 ハイドンに献呈した6曲からなる弦楽四重奏曲集(1782〜1785)と1曲の「ホフマイスター四重奏曲 K.499」(1786)を完成させたあと、モーツァルトが最後の3曲の弦楽四重奏曲となる作品に手をつけるまで3年が費やされた。1786年から1789年にかけてのこの間、モーツァルトの作曲活動が不活発であったわけではまったくない。破格の輝かしい最後の3つの交響曲、ピアノ協奏曲 二長調「戴冠式」、歌劇「ドン・ジョヴァン二」、そして偉大な各2曲のピアノ四重奏曲と弦楽五重奏曲、これらがこの時期に生まれている。さらにモーツァルトはウィーンの宮廷作曲家に指名されていた――前任者グルックの半分の給与という事実によっていささかその名誉は薄められたわけだが――。しかし彼はまた、父レオポルドと2人の息子の死、ウィーンの中心部から安い郊外への転居を強いた財政的な不安定、そして彼と妻コンスタンツェを苦しめはじめていた再発した病気、といった多くの問題に直面していた。このすべてはトルコ戦争を背景にした出来事であって、それはウィーンの資産を激減させ、音楽活動に回す金を減らしつつあった。あの「3大交響曲」さえ演奏会を開いて紹介するあてもない状況だったのである。この時期、モーツァルトはフリーメーソンの盟友プッフベルクあてに借金の申し込みを立て続けに送っている。
 こうしたなかの1789年4月、モーツァルトは彼のパトロンであり、あるときは友人であったカール・リヒノスキー候の誘いをうけ、北ドイツへ演奏旅行に出かける。プラハからドレスデン、さらにライプツィヒを経てポツダムに着き、一度ライプツィヒに戻ったあとベルリンに赴いて国王一家に謁見し、御前演奏を行った。そして、この場で、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世のために6曲の弦楽四重奏曲を、王女フリーデリカのために6曲のやさしいピアノソナタを作曲するよう依頼された。6曲という数字は当時としてはワンセットとして標準的な数量であったわけだが、結局モーツァルトは王との約束を完全に果たすことなく、「プロシア王四重奏曲」と呼ばれることになる3曲の弦楽四重奏曲と1曲のピアノソナタ(K.576)を書いただけで世を去ってしまう。しかしこの4曲はモーツァルトにとって、いずれもその分野の最後の作品となった。
 プロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世は音楽を愛好し、自身腕の立つチェロ奏者であった。モーツァルトは依頼された弦楽四重奏曲を書くにあたって、チェロ・パートが目立つ弦楽四重奏曲を作曲して注文主を喜ばせようと強く意識したらしく、このためモーツァルトにとって今回ばかりは努力を要する仕事であったようにみえる。最後には彼自身、この作品を“やっかいな仕事”と言っている。しかしそうであったからこそか、この作品はこれまでのどの作品よりも冒険的なものとなった。チェロは第1ヴァイオリンとならんで前面に出て、独奏的に高い音域で旋律を担い、全体としてこれまでにない音響をかたちづくっており、楽章のバランスは移動して、メヌエットとトリオは従来の2番目から交響曲のように3番目に位置し、楽句は非対称形につり合い、特に終楽章での対位法のより多くの集中と、作品内での主題の統一ヘ向かう傾向がみられる。
 「プロシア王四重奏曲」の第1番にあたるこの作品は依頼からただちに、一説ではまさに演奏旅行中に――というのはその総譜を記した紙片がドレスデンとプラハの間に位置するある製粉工場から見つかっていることから――、また別の説では1789年6月のウィーン帰郷後ただちに書き始められ、同じ月に完成している。第1および第2楽章の主題は10代のイタリア旅行の際に案出したもので、いそいで作曲しようとしたため再利用したと推察する者もいるが、この時期の典型的な様式を示したものと捉える向きもある。いずれにしろ、一種突き抜けた明るさが全編を支配しながら、そこに微妙な明暗のニュアンスと瞑想的雰囲気が点滅する、モーツァルト晩年ならではの境地が描かれた名作である。
■第1楽章 アレグレット、二長調、2/2拍子、ソナタ形式。分散主和音と音階からなる単純な第1主題をソット・ヴォーチェで第1ヴァイオリンが歌いだし、間もなく高音域を奏でるチェロが優勢になっていく。互いに関連したふたつの主題が呈示されるが、展開部では調性が不安定となり、派生的な旋律を素材としながら進んでいく。
■第2楽章 アンダンテ、イ長調、3/4拍子、ソナタ形式。同じくソット・ヴォーチェと記された簡潔な楽章。再現部ではチェロがほとんどソリスティックな活躍を見せる。
■第3楽章 メヌエット アレグレット、二長調、3/4拍子。メヌエットは和声的進行と半音階的ユニゾンが対比をかたちづくり、トリオではチェロが、今度は第1ヴァイオリンとの対話というかたちで再び主役を務める。
■第4楽章 アレグレット、二長調、2/2拍子、ロンド形式。アーベルトが、モーツァルトの最後期の様式的特徴――自由な対位法――を示す楽章としてあげているように、冒頭からチェロが主題を奏でるこの楽章は、わくわくさせるほど対位法的である。











Wolfgang Amadeus Mozart
by L. Bode
ショスタコーヴィチ(1906 - 1973)
弦楽四重奏曲 第1番 ハ長調 作品49

 生涯にわたり15曲の交響曲と、同じく15曲の弦楽四重奏曲を作曲したショスタコーヴィチは、20世紀に生まれ活躍した作曲家としては、まさにこの点において極めて異例な存在といってよい――20世紀(そして21世紀)の作曲家にとって交響曲(そして弦楽四重奏曲)を作曲するのはむずかしかった――。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に注目すれば、その総数はベートーヴェンの16曲にせまり、交響曲と相互に連関しながら全体として作曲家の変遷をくまなく写しだしており、弦楽四重奏以外のあらゆる分野での試みと成功のあとに着手し、最晩年に最もすぐれた作品を残している等の諸点において、ショスタコーヴィチはベートーヴェンとよく似た足跡をたどっている――ショスタコーヴィチが国家のための音楽、国民のための音楽という逃れられない枠をはめられた点は多いに違っているけれども――。
 ショスタコーヴィチが第1番の弦楽四重奏曲を完成させたのは「革命」の通称を持つ交響曲第5番を作曲した翌年、1938年のことであった。13歳で入学したペトログラード音楽院の作曲コースの卒業作品として1925年に書かれ、翌26年に初演された交響曲第1番は大きな反響を呼び、「現代のモーツァルト現る」などと喧伝されて一躍世界の注目を浴びたショスタコーヴィチは、ついで第2交響曲“10月革命にささげる”、第3交響曲“メーデー”というプロパガンダ的性格を帯びた大作を相次いで発表し、その他バレー、映画、劇音楽にも腕を振るって名声を高め、ソ連の国宝的人物と称されるまでにいたった。
 大きな転機となったのは、1933年作のオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」をめぐる出来事である。このオペラは翌年の初演から異常ともいえる大当たりをとって、欧米でも上演され大成功を博し、彼の名声を最終的に確立する作品となったのであるが、36年にソ連共産党機関誌「プラウダ」紙上において「音楽でないごたまぜ物」と酷評され、「プチブル的」、「形式主義的」、「左翼偏向的」作品というレッテルを貼られることになる。国際的名声をかち得たショスタコーヴィチを、スターリンがその影響力の大きさゆえに恐れるのは多いにありうることであった。実際1936年から大規模な粛正がはじまっており、この時期ショスタコーヴィチは夜間の逮捕に備えて正装のまま床につき、飲酒にふけり、自殺を真剣に考えたという。
 しかし純粋のソビエト知識人であるショスタコーヴィチは、批判を真剣に受け止めて「形式主義的」偏向を精算するために内面的苦闘をつづけたといわれ、その努力の総決算と評価されたのが1937年に発表された第5交響曲である――第4交響曲は1936年に完成し、その4月に初演が予定されていたが、数回のリハーサルの後、作曲者自ら指揮台から総譜を引き上げ、発表を中止してしまった――。この作品で命を永らえることができたショスタコーヴィチではあったが、にもかかわらず、第5交響曲の甘美で英雄的な要素で飾られた勝利の音楽はまた一方で、空虚な勝利でありパロディーだと解釈することも可能なのである。
 第5交響曲の成功と名誉回復の後、ショスタコーヴィチはプロパガンダ映画のための音楽を書くかたわら、1938年の夏のあいだ、わずか6週間で弦楽四重奏曲第1番を作曲する。それは見栄を張らない“指の運動”であり、作曲者に多くの喜びをもたらした。おなじ年の秋に行われた初演に際して自身、楽しい、春のような作品と述べている。この作品の快活な性格に息子マキシムの誕生(1938年5月10日)が寄与しているとみなす見方もあるが、マキシム自身はしかし、作品の無邪気でうららかな性格はその反対のものと関連していると主張している。ショスタコーヴィチの両義性はここでもまた指摘しうるのである。なおショスタコーヴィチは第1楽章と第4楽章を、発表時に入れ替えている。
■第1楽章 モデラート、ハ長調、3/4拍子、ソナタ形式。簡潔な楽章で、ゆるやかなダンスを思わせるリズム感が全編を貫く。第1主題はサランバンド風、第2主題はアイロニカルな伴奏型を伴ったマズルカ風。
■第2楽章 モデラート、イ短調、4/4拍子、主題と変奏。ロシア民謡風の旋律にもとづく変奏曲がヴィオラ独奏からはじまる。この旋律は真正のロシア民謡ではないが、民謡の伝統に正確に沿って作られたものである。第1変奏は対位法的に進行し、第2変奏は装飾的な3連符で彩られ、第3変奏でヴァイオリンが主題を奏して静かに終わる。
■第3楽章 アレグロ・モルト、嬰ハ短調、3/4拍子、スケルツォ。全楽器が弱音器をつけて演奏するこの楽章は、神経過敏なワルツのような性格を持ち、まるでとらえどころがない。
■第4楽章 アレグロ、ハ長調、2/4拍子――4/4拍子、ソナタ形式。モーツァルトを彷彿とさせる快活さとユーモアにみちた楽章だが、ところどころに埋め込まれたアイロニカルな楽想がスパイス的効果を発揮する。最後は交響曲的な振幅と力強さをもって明るく全曲を終える。






Dmitri Shostakovich
スメタナ(1824 - 1884)
弦楽四重奏曲 第1番 ホ短調 「わが生涯より」

 1884年に60歳で亡くなったベドルジフ・スメタナの最後の10年間は、肉体と精神の両面において、彼の健康の漸進的かつ全面的な崩壊の年月であり、同時に彼の最も偉大な作品のいくつかがもたらされた年月であった。第2曲に「モルダウ」を持ち、スメタナの代表作とされる6曲からなる連作交響詩「わが祖国」、数曲のオペラ、そしてふたつの弦楽四重奏曲がこの時期の産物である。
 オペラ「売られた花嫁」においてもっとも見事に示されているように、スメタナは他のチェコのどの作曲家よりも、国民感情の流れに寄り添う音楽言語を展開した作曲家であった。彼は成功した指揮者であり、劇場支配人であり、プラハの音楽界の中心的な人物であった。しかし50歳になった1874年の夏、病気の最初の兆候があらわれると、それはすぐさま耳の異常へとつながり、数ヶ月後には完全に聴覚を失ってしまう。現役の音楽家とし活動することはできたが、保守派からの攻撃にも遭い、翌1875年、あらゆる公職を捨ててプラハの北東62kmのヤプケニツェ村に娘夫妻をたよって隠遁し、そのなかで重要な作品群を書き続けていく。しかし最後には発狂してプラハの精神病院で生涯を閉じることになる。病名は脳梅毒であった。
 ヤプケニツェ引退後の1876年10月に書き始められ、その年の暮れに完成したこの弦楽四重奏曲「わが生涯より」は、タイトルが暗示するように彼の最後の悲劇的な人生におおいに関係しているといわれる。というよりスメタナ自身がそのことを友人宛の手紙のなかで説明しているので、それをここで引用しておこう(佐川吉男氏の訳を一部改変して引用)。

「この作品は私の人生の思い出と、完全な失聴というカタストロフィーを描いた」
「ありきたりの形式の処方箋や慣例にしたがって弦楽四重奏曲を書くつもりは最初からなかった」
「第1楽章は私の青年時代の芸術への偏愛、ロマンティックな雰囲気、よくわからない何かへ名状しがたいあこがれ、それと将来へのある種の不吉な予感を描いている。(持続する高いホ音の譜例を示して)終楽章で長く引き伸ばされる音はこれに由来している。それは1874年に私のつんぼのはじまりを告げたあの高音域での宿命的な耳鳴りにほかならない。それがあまりにもむごい出来事だったので、このちょっとしたいたづらをしてみることにした」
「第2楽章はポルカ風の楽章で、私の心に楽しかった青春の日々をよみがえさせる。そのころ私はダンス音楽を作曲し、いたるところで熱烈なダンス狂として知られていた」
「第3楽章――この四重奏曲を演奏した方々のご意見では演奏不能という楽章である――は、後に私の忠実な妻となる初恋の少女との幸福な思い出を呼び起こす」
「第4楽章は民族的な要素を音楽で扱う道を見出し、せっかく仕事が軌道に乗りだして喜んでいたところ、待ったがかかり、つんぼになるという悲劇的な結末が訪れるさまを描いている。それに、悲惨な先の見通しや、回復への一抹の希望も描いている。だが、それまでの私の先行きが楽しみだった経歴を思い起こすと、やる方ない無念さが胸に込み上げてくる」

 やや饒舌に過ぎるとも言えなくもないこの説明は曲の完成から1年半から2年を経て書かれたものだが、曲の理解に不可欠なものなのだろうか、あるいはまた作曲者の説明に従って曲を理解しなければならないのだろうか。多くの点でシューベルトの伝統にしたがったこの作品を楽しみ理解するために、作品が物語的要素を持っていることを知る必要は必ずしもあるわけではない。音楽は言葉を置き去りにして、音楽の論理に沿って展開せざるをえないという面が必ずあって、個々の楽節はスメタナそのものだとしても、4つの楽章は古典的ともいえるバランスの上に成り立っており、曲の最後で以前の主題が回想される点も、リストの交響詩やピアノ協奏曲以降の19世紀音楽で一般的となりつつあった慣例に他ならならず、「わが生涯より」を音楽そのものとして楽しむ上で、先のスメタナ自身の解説は屋上屋を架すものといわざるを得ない。この作品を正しく理解するには、スメタナの解説を冷静に受け止める視点、民族的要素をばらまきながらも古典的な音楽の論理にしたがって美しい造形をかたちづくる音楽を、音楽そのものとして楽しむ視点、こうしたいわば複眼の視点が求められるだろう。
■第1楽章 アレグロ・ヴィーヴォ・アパッショナート、ホ短調、2/2拍子、自由なソナタ形式。第4小節からヴィオラが決然と奏でる切迫した第1主題、そこにト長調に転じて第1ヴァイオリンが歌うロマンティックな第2主題がからまって曲が展開されていく。
■第2楽章 アレグロ・モデラート・ア・ラ・ポルカ、ヘ長調、2/4拍子、3部形式。まさしくポルカ風のスケルツォで、曲頭から全楽器がユニゾンで奏する正主題が、続いてポスト・ホルンのファンファーレを思わせる副主題が現れ、それらはトリオをはさんで繰り返される。
■第3楽章 ラルゴ・ソステヌート、変イ長調、6/8拍子、自由な変奏曲。チェロの物悲しい独奏に導かれ、7小節からそのオルゲルプンクト(低音の持続音)上に和声的な主題が展開されていく。
■第4楽章 ヴィヴァーチェ、ホ短調――ホ長調、2/4拍子――4/4拍子、ソナタ形式。冒頭の第1主題の活気とエネルギーは歌劇「売れれた花嫁」を彷彿とさせる。スケルツォーソと指示された第2主題の楽しさも並外れたものである。曲は快調に展開していくが、再現部の終わりで突然全楽器が休止し、不吉なトレモロとなって第1ヴァイオリンが高いホ音を保持し、以前の主題を回想して静かに曲を終える。

アプローズ453 田村敏久




Bedrich Smetana

since 2000 / revised in 2002 / (c)Applause453

Home
Artist Profile
Program Notes