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広く厚く深い音楽のながれ
そこに戯れる無垢の音たち
ウィーンの伝統が育んだ
重量級未来派ピアニスト
リサイタリストとしていよいよ
小樽に日本初登場!
音楽の覚醒と陶酔にいざなう
希有な二夜連続公演!
■2005年5月20日(金) 開場18:30 開演19:00 Program A
■2005年5月21日(土) 開場18:30 開演19:00 Program B
■小樽市民センター・マリンホール
小樽市色内2-13-5 TEL(0134)25-9900

Program Notes A


モーツァルト(1756-1791):ピアノソナタ 変ロ長調 K. 281

 バロックの時代にはソナタという言い方は、ほぼ例外なく、ごく普通に2人から3人の奏者によるアンサンブル曲を意味していた。鍵盤楽器単独のソナタは、バロック時代の終わり、古典派時代の始まりに起こった表現様式と社会的変化とともに現れる。鍵盤楽器音楽の主流の形態は、ダンスの組曲あるいは前奏曲とフーガに替わって、急ー緩ー急の抽象的な3楽章のソナタになり、ソナタの標準的な形態は、ヴァイオリンやフルートのような旋律楽器が(通奏低音を伴って)卓越するかたちから、鍵盤楽器が主導的な、実際のところ独占的な役割を演じる形態へと変化していく。こうした変化によって、社会的な音楽活動の最新の変化は完全なものとなった。すなわち、広い意味において、バロックのソナタは紳士が演奏するために書かれたのに対し、古典派時代のそれは第一義的に淑女のために意図されたものだった――というのは、18世紀中頃には、鍵盤楽器の習得が教養ある若い女性のたしなみの一部として受け入れられるようになったからである。最初は鍵盤楽器といえばハープシコードだったが、それは徐々に、(音楽同様、文学や絵画でも)流行となりつつあった優雅で“センチメンタル”な表現にすぐれたピアノフォルテに置き換えられていく。
 鍵盤楽器ソナタは、1756年に生まれたモーツァルトの時代にはすでに十分に確立されていた。鍵盤楽器のためのソナタの最初の重要な作曲家として、われわれはドメニコ・スカルラッティを考えがちだが、彼がその名を冠した単一の(あるいはペアの)楽章は鍵盤楽器作品の主流からはいくぶん外れている。より中心的なのは、ドメニコ・アルベルティ(1710頃〜1740)――彼の名が付けられた分散和音の伴奏法でより有名である――、多作のジョヴァンニ・マルコ・ルティーニ(1723〜97)、あるいはなによりもカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜85)である。少年モーツァルトが父から最初に紹介されたのは、多くの名もない作曲家にまじって、ルティーニ、ガルッピ、ペシェッティ、G. B. サンマルティーニのような作曲家を含むイタリアの鍵盤音楽だった。彼がドイツの作曲家、なかんずくC. P. E. バッハを知るようになるのは、ずっと後になってからである。
 父から最初に鍵盤楽器の指導を受ける前ですら、モーツァルトは4歳年上の姉のレッスンを効果的に立ち聞きしていた。彼女は後になって――彼の死の直後――記している。「父が7歳の娘に指導し始めた時、息子は3歳でした。少年はすぐに天与の並外れた才能を表わしました。彼はよく鍵盤楽器に向かってずっと鍵盤を打ちつづけ、3度和音を選びながら多くの時間を過ごしていました。彼の喜びはそれが美しく響くことであったのです。4歳になると父は鍵盤に向かって2・3曲のメヌエットや小曲を教え始めました‥‥。5歳になるまでにはすでに小さな作品を作曲するまでに上達していました――彼は父にむかってそれを演奏し、父はそれらを譜面に書き記していました。」
 これら初期の作品のいくつかは現存している。しかし彼の最初期のソナタはすべて“伴奏付きソナタ”の形態のものである。“伴奏付きソナタ”は、ごく一般的には鍵盤楽器とヴァイオリン(場合によってはフルート)の作品であって、ヴァイオリンを弾くアマチュアの紳士にたいし、鍵盤楽器を演奏する淑女に目立ちすぎないサポート役を与えることを可能にして、当時の社会的要求を満たすように考えられたものだった。パリに滞在していた1764年、モーツァルトは父の手を少し煩わして、こうした作品を4曲作り、それは出版された最初の作品となった。数ヶ月後のロンドンではさらに6曲(オプションのチェロ・パート付き)を作り、これも出版されている。またさらに、ふたたびヴァイオリンを伴った6曲のセットがハーグ滞在中の1766年に作られた。同じ年、ザルツブルクに戻ってから、彼は最初の鍵盤楽器のソロ・ソナタを作曲したと信じられている。初期のカタログによれば、それはト長調、変ロ長調、ハ長調そしてヘ長調の4曲だが、見つかっていない。ケッヘルのカタログでは、それらに33d、c、f、g の番号が付けられている。
 神童としての旅程において、そしてふたたび晩年になって、モーツァルトは定期的にピアノ演奏を求められた。ソナタはしかし、こうした場合に中心的なレパートリーにはならなかった。たびたび彼は即興演奏を求められた、時に自由に、また時に与えられた主題に基づいて。即興演奏の別のひとつの好みの形態は主題と変奏であった――若い時期から残されている多くのこの形態の作品は、疑いなくその存在をこうした要求に負っている。即興演奏は彼の早熟の試金石として、注意深く作曲され暗記された作品を演奏するよりも、より確かなものであったのだ。現存するピアノ・ソナタなかで、モーツァルトが最も初期の作品を正式に書き記すのは1775年の初めになってからである。それまでにすでに彼はほとんどすべての分野で膨大な作品をものにしていた――8つの劇場作品、同じくらいのミサ曲、1ダースを越える弦楽四重奏曲、40曲以上の交響曲、少数のセレナーデ、そして最初のピアノ協奏曲までも。
 1774年の最後の数週から1775年の始めにかけて、モーツァルトは父とともにミュンヘンに滞在していた。19歳になったばかりの彼は、カーニバル時期にむけてコミック・オペラ(「偽の女庭師」)を作曲するために選帝侯の宮廷に呼ばれていた。1774年のクリスマスの直前、父レオポルド・モーツァルトは自宅の娘ナンネルに宛てて、演奏のために来るさいに何曲かを持ってくるよう依頼する手紙を送っている。「バッハ(多分 C. P. E. あるいはおそらく J. C. ――ヨハン・クリスティアン)とパラディージのソナタに加えて、ナンネルにはヴォルフガングのソナタと変奏曲、それに好みの他のソナタの楽譜も持ってくるのがいいだろう、そんなにスペースは取らないだろうから」。もし彼が言及しているのが鍵盤楽器のソロ・ソナタなら、心に抱いていたのは(消失した)1766年のグループでなければならない。モーツァルトはこれら少年時代の作品を幼稚すぎると思ったのだろうか。それはありうることかもしれない。というのは続く数週間のうちに5曲の新曲――K. 279 ハ長調、K. 280 ヘ長調、K. 281 変ロ長調、K. 282 変ホ長調、K. 283 ト長調――を書き留めているからである。このグループは、また数週間後には K. 284 ニ長調――後の手紙からミュンヘンのパトロン、デュルニッツ男爵のために書かれたことが知れる――によって補完される。循環する調性のもとに6曲を書き上げたという事実は、彼が出版を目論んでいたことを示唆するが、実際には(レオポルド・モーツァルトの奮闘にもかかわらず)印刷にはいたらず、最後の K. 284 だけが存命中に出版されたにすぎない。けれども、モーツァルトはこれらを1777〜78年のパリ・マンハイム旅行中によく演奏した。
 様式という面において1775年のソナタ群は、(第25番、第29番として知られている)ト短調やイ長調の交響曲のような、その数ヶ月前に書かれた交響曲のいくつかほどには目立たないけれども、著しく独創的である。興味深いことに、若いベートーヴェンが彼自身の楽器のために書くにさいして常に最も独創的であったのに対し、モーツァルトの創意は彼の利用した手段を横断するかたちで均等に広がっている。初期の交響曲に顕著なハイドンの影響は、ときおりこれらのソナタに顔を出す。ヨハン・クリスティアン・バッハ――大バッハの末子で、モーツァルトはロンドンで知り合って彼を称賛し、彼の鍵盤楽器ソナタを協奏曲に編曲していた――の影響はより顕著に見られる。モーツァルトはまた、彼の出会ったイタリアの音楽にも心を動かされていた。といっても、彼のテクスチャはそれらに比べてほどんど常に、より面白く、よりにぎやかではあるけれども。
 この日演奏される K. 281 のソナタは、6曲セットの3番目にあたり(したがってピアノ・ソナタ第3番と呼称される)、比較的地味な扱い方がなされているけれども、ここには繊細な美しさで輝くモーツァルトがある。
■第1楽章 アレグロ・モデラート、変ロ長調、2/4拍子、ソナタ形式。優美な金線細工のようなラインが美しい。
■第2楽章 アンダンテ・アモローゾ、変ホ長調、3/8拍子、ソナタ形式。アモローゾ(愛情ある)のアンダンテは特に J. C. バッハのやり方を思い起こさせる。愛情に満ちた優雅な音楽。
■第3楽章 ロンド アレグロ、変ロ長調、2/2拍子。拡大された、調べの美しいロンド。終わり近く両手に交互に現れる長いトリルの楽節はカデンツァを示唆する。







Wolfgang Amadeus Mozart
by Joseph Lange
R. シュトラウス(1864-1949):ピアノソナタ ロ短調 作品5

 リヒャルト・シュトラウスは音楽的な家庭に生まれ育った。シュトラウスが後になって感謝とともに思い起こしているように、彼に想像力と詩的センスと感受性を賦与したのは母親であった。ミュンヘン宮廷管弦楽団の高名な首席ホルン奏者であった父は、幼い時期から、非常な才能に恵まれた息子が過去の音楽を学ぶように気を配っていた。こうして十分に伝統を教え込まれたことが、作曲家として目覚ましい並外れた創造の成功へ道を整えたのである。
 4歳半という幼い年齢で定期的な音楽の指導を受け始めたシュトラウスは、6歳で短い「シュナイダー・ポルカ」を作曲し、父はそれを譜面に書き起こした。少年は両親の強制なしに、自発的に音楽の広い世界を学び、探索しはじめたようだった。「私は常に貧弱なピアノの生徒だった。というのは必要な練習がだんだん面白くなくなってきたから。その一方で、できるだけ多く音楽を知りたくて読譜を楽しんだ」。別の言い方をすると、若いリヒャルト・シュトラウスにとってピアノは目的のための手段であり、彼の鋭い音楽への好奇心を満たそうとしてレパートリーの知識を広げる、そのための有用な道具だった。彼は勤勉な才能ある独学のピアニストであることで満足しただけで、ピアニストとしての独立したキャリアに微塵の興味も持ったなかった。したがって、ためらいがちに成熟していった作曲家が1870年という早い時期に、おもにポルカ、ソナチネ、変奏曲、行進曲、その他この種の機会音楽のピアノ曲を書いて最初期の創作過程を歩んだのも、成熟した巨匠がこれら若書きのちょっとした過ちを激しく否認することになるのも、なんの驚きもない。しかしながら、シュトラウスが作品番号を付けて重みを与えたわずか3曲のピアノ作品(作品3、作品5、作品9)が――これ以外の若書きのピアノ曲をシュトラウスは全て破棄している――、自己批判の吟味を乗り越えて生き残らなかったのはむしろ驚きである。1880年から84年の間に作曲され、しかしずっと後になるまで出版されなかったこれらの作品は、彼の手紙のなかで触れられることは滅多になかったし、最後には完全に無視されてしまったのである。
 この奇妙な無関心の理由は、シュトラウス自身が芸術家としてのキャリアで何がもっとも決定的な瞬間だと認めたかを一瞥することによってのみ理解される。すなわちそれは、まだたんなる学生以上でしかなかった若いシュトラウスの、指揮者ハンス・フォン・ビューローとの運命的な出会いである――フォン・ビューローはシュトラウスの「管楽器のためのセレナーデ 作品7」を知って、若い作曲家の熱心な擁護者になり、1885年にはたった21歳の若者をマイニゲンの宮廷管弦楽団の音楽監督に任命することになる――。シュトラウスにとって、熱狂的なブラームス派のフォン・ビューローは時代の美の原理のまさに権化だった。それゆえ、特にピアノ作品についての彼の最初の判定はシュトラウスにとって破壊的以上のものだった。ミュンヘンの出版者への手紙のなかでフォン・ビューローは作品3の献呈を断って次のような冷酷な言葉を連ねている。「私はまったくシュトラウスのピアノ曲がきらいだ。それは未熟でませている。これに比べると、ラッハナーは想像力においてショパンのように見える。創意のなかに若さの軌跡が見られない。私の考えではなんの天分もなく、ただ才能があるだけ、それもほんのありふれたものだ。」 深く落胆したシュトラウスがそれ以降、さらなるピアノ・ソロ作品を作曲しようとするまじめな考えを実質的に放棄したという事実にたいし、フォン・ビューロの無慈悲な批評はいくぶんかの責任があると考えることができるだろう。しかし、1885/6年のオーケストラを伴う「ブルレスケ」や、ピアノがたんなる伴奏以上の重要な働きをする多くの歌曲が生まれているように、彼の後の作品においてピアノが完全に無意味になったわけではなかった。
 1880年、作曲者16歳の作であるピアノ・ソナタ 作品5は、同時期の「5つの小品 作品3」とは趣を異にして、大規模な形式に果敢に挑戦しながら、そこにナイーブな発想を埋め込むという、ある意味では背反する行為を融合させた希有の作品である。そこに形式上の弱点(特に第1楽章と第3楽章の展開部)を指摘するのは容易だが、(ワーグナー風の半音階的書法等の)時代の趨勢に迷うことなく、ロマン派から受け継いだ伝統だけを元手に、なんのためらいもなく成し遂げたかのように思わせるリヒャルト・シュトラウスの天才によるこの作品は、どこにもない手触りを持っている。あちこちに断絶があり、特に両端楽章では形式という桎梏に悪戦苦闘しているさまがありあと判別できるけれども、それとおなじほどに、随所に顔を出すダイアモンドの原石のような強く固く光を放つ楽想は驚くほど新鮮だ。グレン・グールドがその最後の録音にこのソナタを選び、「どうして多くのコンサート・ピアニストがこの作品を演奏しないのか」と不思議がったというのも、今にしてみればもっともなことである。この日の聴き手には、幸運にも、新たな宝の発見という特別な権利が用意されている。
■第1楽章 アレグロ・モルト・アッパショナート、ロ短調、4/4拍子、ソナタ形式。冒頭から奏されるタタタ・ターの音型による主題は明らかにベートーヴェンの「運命」の動機を模したもの。この短い動機が(「運命」のように)全編を貫き、特に展開部では54回も繰り返される。そのなかに現れる抒情的な瞑想的な副主題は突出して美しく、ざわめく全体のなかで、安らぐための静かな小島として機能する。
■第2楽章 アダージョ・カンタービレ、ホ長調、3/8拍子、3部形式。シンコペーションの柔らかな伴奏に乗ってソプラノとテノールが会話を交す「ロマンス」ではじまる。きらめいて飛び跳ねるような中間部がなかったら、そこで終わっていたはずだが、シュトラウスの天才はその後に信じがたいほど斬新な楽想を置いて、全体を深い陰影を持つ形態に仕上げている。
■第3楽章 スケルツォ/プレスト、嬰ヘ短調、2/4拍子。このわずか3分にも満たない音楽も驚くべきものである。ありそうでなかった音楽、だか今ここにある! その軽やかな足取りはメンデルスゾーンを思い起こさせるが、こちらはすべて固く光っている。抒情的なイ長調のトリオが絶妙な対比をかたちづくる。
■第4楽章 フィナーレ/アレグレット・ヴィヴォ、ロ短調、6/8拍子、ロンド・ソナタ形式。優雅にそして少々感傷的に揺れ動く舞踊音楽。ここでも展開部では同じ音型が執拗に繰り返される。最後のプレストでは両手のオクターブが嵐のように追い掛け回り、華やかに曲を終える。



Richard Strauss
ベルク(1885-1935):ピアノソナタ 作品1

 裕福な商人の父と、芸術家気質の母のあいだに生まれたアルバン・ベルクは、少年時代から音楽への愛着を示し、独学で作曲をしていたが、文学にもひかれ詩人として立つ希望を持っていた時期もあった。1903年ギムナジウムの卒業試験に失敗し自殺未遂事件を起こすが、翌年には卒業し、母の希望を受け入れるかたちで地方の官吏見習いとなった。この年、3歳年長の兄はひそかに弟の歌曲を持ちだし、当時ウィーンに戻っていたシェーンベルクに見せた。シェーンベルクはさっそくこの才能豊かな独学者を弟子入りさせ、以後1910年まで作曲の指導を行うことになる。
 シェーンベルク自身、多くの部分を独学で習得した作曲家であったが、当時もっとも影響力のある指導者になっていた。1904年秋からの最初の弟子のなかに、アルバン・ベルクとアントン・ヴェーヴェルンが含まれていた。ふたりとも修業時代が終わったのちも長い間、師の影響下に留まったことから、この3人はまとめて“新ウィーン楽派”と呼ばれる。シェーンベルクは、自作品の革命的な性格で有名ではあったにもかかわらず、指導者としては伝統への深い尊敬を教え込んだ。こうしたシェーンベルクの一見したところ矛盾する側面は、1908年に書かれたベルクのソナタのなかで出会い、融合している――4年間の研鑽の最後に向けて書かれたこの作品は、音楽史上、最も並外れた作品1として位置するはずである――。ベルクはこれを卒業作品として考えていたように見えるが、それは創意工夫をもとにした入念な仕事ぶりに、あるいは1楽章構成の古典的な形態に明らかである。ベルクは最初3楽章からなるソナタの構想を練っていたというが、第1楽章を書き終えた時、シェーンベルクの助言もあり、そこで筆を置いたのであった。
 曲全体はロ短調とされるが、4度の堆積による和音、増3度和音の多用、半音階的声部進行の導入、解決を伴わない非和声音の使用などによって、一部をのぞいて調性を感じ取ることはもはや不可能である。この作品の学生としての価値ある企ての意図するところはどれも、一方の側でシェーンベルクが移動しつつあった新世界と、このソナタが少し、ほんの少しだけ投錨している調と調性という以前からのしがらみのあいだの、巨大なもがきのなかで脇に追いやられているように見える。ベルクの想像力の小宇宙はまさに最初のフレーズにあり――4度を重ねてぎこちなく上昇する動機あるいは“問いかけ”――、そこから半音階と全音階の和音で彩られた旋律的なつながりを通して音楽は流れ出てきて、このソナタの名目的な調であるロ短調に答えを見出す。この最初の工夫は、姿を変えながらほとんどすべての小節に広がっている。展開部においてffffのクライマックスを形成した音楽は、やがて解決を求める情熱的な探求をはじめるが、それは捕らえどころのないものとなる。しかし、厳粛なコーダにおいて最後の最後まで、ベルクは静かにしかし語勢を強めて伝統の側に立つのである。



Alban Berg
リスト(1811-1886):ドン・ジョヴァンニの回想

 「僧服をまとったメフィストフェレス」、晩年のリストを同時代人はこう評している。じっさい、リストの生涯はこうした極端にまで相反する要素によって彩られ、拡大され、引き裂かれている。演奏家としての華々しい活動と瞑想的な隠遁生活、悪魔的性格と宗教的性格、信仰による浄化への激しいまでの憧憬と数多い反倫理的な恋愛行為。しかしこうした互いに背反する要素が共存するその根底にあるのは、永遠なるものを求め続けたロマン主義者としての姿勢であると解釈することができるかもしれない。
 演奏家リストの音楽史への貢献は、第一にピアノの超絶技巧の開拓にあり、それは当然のことながら、技巧のための技巧にとどまるものではなく、ロマン的感性と結びつくかたちで魔力的な音楽世界を生み出した。音楽界にヴィルトゥオーゾの称号を定着させたのは、ヴァイオリンのパガニーニとピアノのリストである。作曲家リストは、ピアノの分野においては、その超絶技巧を様式を伝える作品を残すかたわら、印象音楽と呼ぶべき作品を書き、晩年の斬新な和声法は音楽の新時代を予告している。
 1822年、11歳でウィーンでの最初のリサイタルを開催し成功を収めて以来、パリを中心にしてイギリス、フランスの各地で演奏活動を行っていたリストは、1827年に父が死去するとともに自身健康を害し、一時演奏活動を中止する。いまだ10代のこの時期、すでに僧籍に就くことを夢見たという。30年ころから徐々に音楽界に復帰し、パリではロマン派詩人たちと交流し、ベルリオーズ、パガニーニ、ショパンといった同時代の作曲家に影響を受けながら次第に自己の様式を確立していく。35年にダグー伯爵夫人マリとスイスに駆け落ちするが、これはパリの社交生活から逃れ、自己に沈潜する絶好の機会となった。39年、記念演奏会のためにウィーンに赴くのを機に演奏活動に復帰し、以来、ヴァイマルに定着するまでの8年間は、ヴィルトゥオーゾとしてのリストの名声がヨーロッパ全土を制した時代であった。楽旅はヨーロッパ全土にわたり、足跡はトルコまで及んでいる。そしてその演奏は至るところで熱狂と歓喜を巻き起した。まさにこうした時期に、この「ドン・ジョヴァンニの回想」が作曲されているわけである。
 モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を下敷きに1841年に書かれた「ドン・ジョヴァンニの回想」は、数多いパラフレーズもののなかで最も規模が大きく、リストの残した膨大な数の編曲作品のなかでも頂点を占める作品のひとつに数えられる――トランスクリプション(編曲)が他作品の他楽器への逐語的翻訳であるのにたいし、パラフレーズは他作品からその要素を自由に抜き出して挿入句などを加えて技巧的作品に仕上げたものを指す、リストはオペラ・パラフレーズに「回想 Réiniscences 」のタイトルをよくつけている――。曲は騎士長の石像の音楽にもとづく荘厳な長い序奏部を置き、やがて「お手をどうぞ」による主題と変奏曲に移行する。つづいて「シャンパンの歌」によるクライマックスを築き、コーダにはふたたび石像の音楽が顔をだす。石像の音楽は推移部にもあらわれ、全体をまとめる有機的な働きを担っている。

アプローズ453 田村敏久



Franz Liszt

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