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広く厚く深い音楽のながれ
そこに戯れる無垢の音たち
ウィーンの伝統が育んだ
重量級未来派ピアニスト
リサイタリストとしていよいよ
小樽に日本初登場!
音楽の覚醒と陶酔にいざなう
希有な二夜連続公演!
■2005年5月20日(金) 開場18:30 開演19:00 Program A
■2005年5月21日(土) 開場18:30 開演19:00 Program B
■小樽市民センター・マリンホール
小樽市色内2-13-5 TEL(0134)25-9900

Program Notes B


メンデルスゾーン(1809-1847):幻想曲 嬰ヘ短調 作品28「スコットランド・ソナタ」

 メンデルスゾーンの両親はともにユダヤ系、父は銀行家、その父、すなわち祖父は高名な哲学者であり、母はプロイセン宮廷の宝石細工職人の娘であった。3歳で一家はベルリンに移り、両親の慎重な計画のもとに、一般教養、ピアノ、ヴァイオリン、作曲の各方面で英才教育を受けた。まさに理想の環境のもとに育ったメンデルスゾーンは、モーツァルト同様、神童とうたわれ、9歳でピアノ奏者として公衆の前にたち、10歳から作曲を始めた。この時期以降、ザルツブルクの先輩のように、彼はヨーロッパ各地を旅行してまわり、南はナポリまで、北はヘブリディーズ諸島まで足をのばしている。そしてイタリアとスコットランドでの強い印象が後期の交響曲に霊感を与えるものとなったのは周知の事実である。
 ロマン派の作曲家にとって格好の作曲分野となった幻想曲を考えるときに、1823年にウィーンで出版されたシューベルトの「さすらい人幻想曲」を影響を無視するわけにはいかない。束縛されない形式のなかに想像力を自由に羽ばたかせる楽曲形式は、ロマン派の作曲家にとって魅力あるものであるはずだった。メンデルスゾーンも例外ではなく、作品28の幻想曲ほかに、作品15の「『夏のなごりのばら』による幻想曲、作品16の3曲の幻想曲を書き残している。今回演奏される作品28は、3楽章で構成される点、楽章間に休みをおかず、続けて演奏されるようになっている点において、シューベルトの方法にならったものになっている。
 メンデルスゾーンは、「スコットランド・ソナタ」と呼ばれる「幻想曲 ヘ短調 作品28」の最初の版を1828年に書いたらしい。それは翌年に行われる最初のスコットランド訪問以前のことである。1830年、スコットランド訪問から戻って後、彼はワイマールのゲーテを訪れ、ゲーテにの前でこの幻想曲を演奏しているが、1833年、ピアニストにして作曲家、イグナツ・モシュレスに献呈するかたちで出版するさい、曲を改訂している。モシュレスは1824年のベルリンで彼と彼の妹を教えており、メンデルスゾーンの1829年のロンドン訪問の際には有用な働きをした。
■第1楽章 コン・モート・アジタート、嬰ヘ短調、2/4拍子、3部形式。作曲家が刺激的な調として発見した嬰ヘ短調の連続するアルペッジョではじまり、つづいてアンダンテの主要主題となる。より拡大された、滝のように連続するアルペッジョが、回帰するアンダンテの主題のあとにつづき、それは装飾的な強さをもった更に短い終結部を導き、やがて物思いに沈んだ結末へと消えていく。
■第2楽章 アレグロ・コン・モート、イ長調、2/2拍子、3部形式。内容的には、二長調のトリオをもつ穏やかなイ長調のスケルツォである。ここには愛らしい明るさがある。
■第3楽章 プレスト、嬰ハ短調、6/8拍子、ソナタ形式。華麗な効果をねらった楽章で、軽快な第1主題ではじまる。展開部ははじめ第1主題を、後半で呈示部の小結尾の素材を扱う。そのあとに再現部と結尾がつづく。





Felix Mendelssohn Bartholdy
1829年のイギリス訪問時
シューマン(1810-1856):フモレスケ 作品20

 ホメロスやヘルダーリンの詩作品と同様にベートーヴェンやシューベルトの音楽に耽溺し、20歳になるまで詩人となるか音楽家となるか迷い続けたシューマンは、音楽に針路をとるやいなや10年の長きにわたってピアノという楽器に全身全霊を傾けた。次いで彼は30歳になってリート作曲家となる。この突然の変化は彼の生涯のもっとも幸せな事件と関係している。ながい苦闘の末にようやく、ピアノ教師の娘ヴィークの若く美しい娘、9歳年下のクララを妻にむかえることができたのである。この転換の直前、1839年に書かれた「フモレスケ」は、いわばピアノ作曲家時代の最高潮を飾る作品のひとつに数えられている。
 数年間、大学で法科を学びながらライプツィヒに滞在したのち、ハイデルベルクの大学に籍を置くものの、1年に満たずして再びライプツィヒに戻り、ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの弟子となったのは1830年、シューマン20歳の時である。ヴィークはシューマンのピアニストとしての成功を信じていたが、事態は思わぬ方向に展開する。1832年までにシューマンの右手指に麻痺が生じてきたのである――それは梅毒治療にもちいた水銀中毒によるものと考えられている――。シューマンは演奏家をあきらめ、作曲に集中していく。1834年には、以後10年間にわたって作家・批評家としての名声を打ち立ることになる雑誌、『新音楽時報』に深く関わるようになった。
 ライプツィヒでの修行時代、シューマンはヴィークの娘クララと恋に落ちた。クララはピアニストとして相当な才能に恵まれ、ヴィークはクララのうえに保護と注意を惜しみなく注いでいた。クララの演奏会プログラムに載せるシューマンの作品が作曲家の評判を高めていたけれども、ヴィークはこれからのクララのキャリアのために、シューマンが作曲によって何かの役に立つと考えていた。しかしどうしてか、ヴィークは義理の息子としてのシューマンを強く拒絶し、二人の結婚に反対する意志は1839年までにいよいよ明白になっていく。
 シューマンは、自己の確立が闘いの基礎になければならないと考え、そのために自分も中央に進出し、雑誌の出版元も中央にうつす意図をもって、演奏旅行に出かけたクララを追うかたちで、1838年9月、ウィーンに旅立つ。ウィーンでは作曲を続けるかたわら、シューベルトの兄フェルナンドを訪れてシューベルトの未発表のハ長調交響曲を発見し、そこから決定的な影響を受けるなど、おおきな収穫もあったが、例の『新音楽時報』を成功させ、名をあげて、ヴィークの親心を動かすつもりでもあった、その出版は思うように進まず、クララとの問題は解決のめどが立たない。こうした時期の1839年のはじめに書かれたのが「フモレスケ 作品20」である。クララはパリへの演奏旅行で不在、八方奔走してもどうにもならず、もはやあきらめてライプツィヒに帰ろうとして、「まる1週間というものピアノに向かって作曲し、書き、笑って、泣いて」この作品を書き上げたというのである。
 「フモレスケ」の形式はとらえどころがない。そのタイトルは、時代の気まぐれな気分の変化のようなものを表現しようとする初期のロマン派文学の様式から借用したもので、音楽史のなかで登場するのはこれが始めてのことである。ここでシューマンはゆるく関連をもつエピソードをつなげていくのであるが、全体は切れ目なく続けて演奏される。全体は楽章のようなものでグループ化されるだろうが、どこが始まりで終わりかに関しては見解がわかれよう。作曲家によって使われている二重の小節線は、こうした形式分析の試みに何の役にも立たない。
 曲は、シューマンの偽名であるオイゼビウスの性格とフロレスタンの野性的な雰囲気を対比させる部分で開始され、短い終結に最初のゆっくりした部分が戻ってくる――オイゼビウスとフロレスタンはともにシューマンが仮想した理想の音楽サークル、ダヴィッド同盟の指導的メンバーであり、オイゼビウスは瞑想的内省的な性格であるのにたいし、フロレスタンは野性的行動的な性格を持つとされる――。つづく「急いで(Hastig)」の指示をもつ部分で、シューマンは「内部の声(In nere Stimme)」をスコアに加えているが――この部分は3段譜で書かれている――、それはクララの、そして6月に目にすることになるクララの作品「ロマンス ト短調」の声であり、そこに二人の心の統合の確証を見出している。曲の最初の部分が再現して、もう一度、対比的雰囲気がひと括りにされる。つづいて繊細なエピソードがいそがしく動く対位法的な「間奏曲」を導き、それは開始部分の再現と短いアダージョによって再び巡ってくる。続く部分でト短調の調性は、優しい内省的な気分のなかで変ロ長調に戻っていくが、そこに短くフロレスタンが押し入ってくる。音楽は劇的な興奮のなかで前進し、小休止のあと、最終節を導くのに十分な寛大さを持つ堂々たる式典的な和音がつづき、ドラマの最後の爆発で曲を終える。




Robert Schumann
シューベルト(1797-1828):4つの即興曲 作品142 D. 935

 未完成交響曲や弦楽四重奏曲 ハ短調「断章」などのよく知られた作品に加えて、シューベルトはピアノ・ソナタの分野でも完成した11曲を越える12曲を未完まま残している。これがいかなる理由によってか、もはや知るすべは残されていないが、シューベルトの作品を理解するうえで、こうした事実をわきまえておくことは一定の意味があるだろう。この点にかんして、ピアニスト、ゴットリープ・ヴァリッシュは次のように書く――主題の素材が限界に押しやられたという気分になったのか、形式の要求にうまく対応できなくなったと思ったのか、あるいは単純に、新しい、おそらくさらに刺激的な、さらにやりがいのある仕事に変えようとする内的な圧迫によるものなのか、決定的な答えは十分な分析をとおしても、常にいつも可能であるわけではない。最後は、それゆえ、音楽それ自体が語らなければならない、(録音した)これらの(未完の)音楽は常にちょっとパズルやミステリーのようなところを運んでくる――。
 作曲を途中で放棄した理由がどうあれ、シューベルトの未完に終わったピアノ・ソナタが、作曲家としての悲劇であり失敗のしるしであることに変わりはないだろう。その多くは、シューベルトの危機の年と呼ばれる1817年から1823年のあいだに書かれているが、それらは、規範としてのハイドンやモーツァルト、そしてとりわけ現存する偉大な作曲家ベートーヴェンを消化し乗り越え、自己の個性を獲得しようとする激しい闘争のあとの残骸なのだろうか。1825年、前年には書かれなかったピアノ・ソナタが3曲生まれるが、このうち1曲はまたも未完のまま放置された(通称「レリーク」ソナタ)。翌1826年には「幻想」の名で呼ばれるソナタが1曲だけ書かれ、次の1827年からシューベルト最後の年1828年にかけて、3曲の偉大なソナタの他に、シューベルトがこれまで手がけなかった分野である、「楽興の時」と「即興曲」という小品集が作曲されるのである。これらは性格的小品(キャラクター・ピース)として、その後のロマン派の作曲家に大きな影響を与えることになる。
 ソナタよりも晩年に完成させたこうした小品集においてこそ、シューベルトの天性が遺憾なく発揮されているというのは通説だが、同時に、シューベルトにおいてソナタは即興曲的であり、即興曲はソナタ的であるとも言われる。つまりソナタの主題群は部品ではなく独立して逃れようとし、逆に即興曲の主題は全体を構成する方に向かいがちだということである。実情はしたがって、シューベルトは広い音楽領域に常に開かれて存在していたということ、そしてそこを(短い生涯のうちに)大股に歩き回ったということに過ぎないのかもしれない。
 即興曲のタイトルは、ロマン主義と通俗的に結び付けられる気楽な陶酔といったものをすっかり代表しているように見える。即興、あるいはより正確に突然の着想を示唆するこの言葉が音楽に最初に現れるのは、1822年のボヘミアの作曲家ヴォジーシェクの6曲からなる即興曲集においである。彼はフンメルのピアノの弟子であり、プラハの有力な作曲家トマシェクに作曲を学び、1818年からウィーン音楽愛好家協会の指揮者を務めた。同じ年、ボヘミア系の別の作曲家マルシュナーが、ピアニストの夫人の主題をもとに即興曲集を書いている。シューベルトの8つの即興曲のうち、作品90の最初の4曲は出版社ハスリンガーによってそう名付けられたものである。曲集最初の2曲は1827年に作品90の一部として現れ、次の2曲、作品90の第3と第4は1857年にようやく日の目を見ている。1827年12月に作曲された作品142の第2のグループは、明らかに第1集の続きとして意図されている。
 1839年に出版されたこの作品142の即興曲集を、シューマンは、4楽章のソナタを形成するものと考えた。シューマンは書いている。「自ら『即興曲集』と名付けたとは信じがたい。第1番は疑問の余地なくソナタの第1楽章であり、完璧だ。第2番も調性や性格から見ても同じソナタの第2楽章だ。終わりの2つの楽章がどこへ行ってしまったかは、シューベルトの友人たちが知っているだろう。第3番は別の曲だ。第4番はもしかするとこのソナタのフィナーレかもしれない。」 シューベルトの高名な研究者、アルフレート・アインシュタインにいたっては、作品142を最初からソナタとして扱い、論じている(1948年)。この点については、「幻想」ソナタ(ト長調 D.894、1826年)が、独立した4曲の寄せ集め――『幻想曲、アンダンテ、メヌエット、アレグロ』(最初の『幻想曲』は出版社の気まぐれな命名だが、「幻想」の名はここに由来する)――として出版された事実を付加することで補強されるかもしれない。こうしたかたちの出版が時代の精神に調和するよりよい方法と考えられたのだろうか。
■第1曲 アレグロ・モデラート、ヘ短調、4/4拍子。シューマンはソナタ形式としているが、非常に自由な形になっていて、ロンドにも近い。冒頭の内に熱いものを秘めた決然とした第1主題が主導する部分、ゆるやかな第2主題が主導する部分、既出素材の展開部、この連続が変形されながら2度繰り返され、最後に冒頭主題が回帰する。「まるでこのソナタ形式は、ベートーヴェンの死の年に当たって、再び元来の2部形式に帰り、いっさいの《劇的なもの》を消滅させようとしているかのようである。この楽章が決して独立的に構想され成立したものではないということの最良の証拠は、最後の10小節における冒頭主題への回帰である。この楽章は継続と解決を切に求めている。そしてそれを変イ長調のアレグレットのなかに見出すのである。」(A. アインシュタイン)
■第2曲 アレグレット、変イ長調、3/4拍子。表示はないが、メヌエット形式をとり、トリオ部をはさんだ3部形式。「未来のピアノ曲が発揮しうるようになるあらゆるロマンティッシュな魔力の予告である」(A. アインシュタイン)というこの曲の主題はきわめて素朴なもの。トリオ部には主題らしきものはなく、右手が3連音符で自由に動き回る。
■第3曲 変奏曲 アンダンテ、変ロ長調、2/2拍子。主題は自作の劇音楽「キュプロスの女王、ロザムンデ」からとられたもので、弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 D. 804にも利用されており、シューベルトお気に入りの旋律だった。曲は主題と5つの変奏曲からなる。「きわめて良い響きに富み、その《ヴィルトゥオーゾ的性格》はきわめて無邪気であり、その位置はきわけて適切だ」(A. アインシュタイン)。
■第4曲 アレグロ スケルツァンド、ヘ短調、3/8拍子。変則的ながら、中間部が異常に長い3部形式と考えられる。「いまではわれわれになじみになっているシューベルトの《晩年》の形式におけるロンドであって、十分に仕上げられた中間部を持っている。この楽章はアレグロ・スケルツァンドであるが、今度は単にメロディーと和声のなかばかりでなく、特にリズムのなかにカプリッチョ的要素が満ち満ちている。」(A. アインシュタイン)。最後は16分音符が6オクターブを一気に下降して曲を閉じる。

アプローズ453 田村敏久



Franz Schubert
by Moritz von Schuwind






Jenger, A. Hüttenbrenner,
and Schubert

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