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上海クァルテットは結成20周年を機にベートーヴェンの弦楽四重奏全曲演奏会に挑戦し、日本では東京と大阪を舞台に、2003年秋から3期、計6回の演奏会を1年がかりで成し遂げました。そのなか、小樽では2004年の3月と10月にそれぞれ第2期と第3期にあたる計4回の演奏会を開催、ベートーヴェンの内奥に激しく迫る彼らの演奏は大きな反響を呼びました。このたび、小樽では実現していない第1期を特別完結編として開催いたします。「ラズモフスキー第3番」「セリオーソ」という有名曲の他に後期の偉大な作品群から第12番、第15番が並ぶ今回の2公演は、むしろシリーズの掉尾を飾るにふさわしいものです。心から心へと希求したベートーヴェンの音楽は、人間関係が希薄になりがちな現代においてこそ、人間そのものへ向う力強いメッセージとなって、いよいよ輝きを増しつつあります。上海クァルテットにとっても、今演奏会が新たにカメラータ・レーベルからスタートするベートーヴェン全集録音の先駆けとなります。ご期待ください。
■2005年11月4日(金) 開場18:30 開演19:00 Program_A
■2005年11月6日(日) 開場18:00 開演18:30 Program_B
■小樽市民センター・マリンホール
小樽市色内2-13-5 TEL(0134)25-9900
Program Notes

弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 作品18-2
弦楽四重奏曲 第3番 二長調 作品18-3

 作品18の6曲からなる弦楽四重奏曲集は、この分野におけるベートーヴェン最初の作品で、1798年から1800年にかけて相次いで完成された。作品18に着手する前の1795年、アポニー男爵から弦楽四重奏曲の作曲を依頼されていたが、こちらはついに書かれなかった。1792年遅く、22歳で辺境のボンからウィーンに移住して以来、若いベートーヴェンはむしろ弦楽四重奏曲以外の器楽作品を作曲するのに多忙であり、そのなかであらゆる試みを激しいまでの熱意をもって行っていた。
 ベートーヴェンがこれら最初の弦楽四重奏曲集を作曲するにあたって、ハイドンやモーツァルトの影響下にあったのは想像に難くない。当時ベートーヴェンの保護者のひとりであるリヒノフスキー侯爵邸の金曜音楽会では、シュパンチヒを第1ヴァイオリンとする優秀な弦楽四重奏団が毎週演奏会を催していた。もちろん、ベートーヴェンは容易にその演奏に接することができたわけである。演奏会の曲目にはハイドンやモーツァルトの作品にまじって、フェルスターの作品も含まれていた。フェルスターは当時ウィーンではかなり高く評価されていた作曲家で、とくに弦楽四重奏曲を得意としていた。ベートーヴェンはこの22歳年上の作曲家による対位法の教授法を称賛し、他人にも薦めていたし、彼の弦楽四重奏曲から多くのものを手にいれた。フェルスターの作品とベートーヴェンの作品とのあいだにはかなり相通じるものがあるといわれている。こうして、これまで蓄積された音楽的個性が弦楽四重奏曲の分野で花開くかたちで作品18は生まれたのである。
 作品18はロブコヴィッツ侯爵にささげられている。当時、ハプスブルク帝国の首都ウィーンは弦楽四重奏曲を生む中心地であり、新音楽の作曲を支援しようとする熱心な貴族階級の居住地であった。そのなかにあって、チェコ出身の貴族ロブコヴィッツ侯爵はウィーンに出てきた若いベートーヴェンをまっさきに支援した。ベートーヴェンからはこのほか、第3、第5、第6の各交響曲、「ハープ」四重奏曲など多くの作品を献呈されている。
 6曲の完成順は番号とは全部違っていて、異説はあるが、第3番→第1番→第2番→第5番→第6番→第4番の順序で作曲された。

 作品18の第2、弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 は、6曲中第3作目にあたり、完成は1800年に入ってからである。ドイツではこの曲を「挨拶四重奏曲」と呼ぶことがある。第1楽章第1主題が、あたかも丁重な挨拶を連想させるというのがその由来というが、全曲はこの主題が振りまく気分に支配されていて、ベートーヴェンの作品でもとくにロココ風の優雅な趣に満ちている。
■第1楽章 アレグロ ト長調 4分の2拍子、ソナタ形式。優美な第1主題、経過部のいきいきした主題のあと、二長調の第2主題はスタッカートで奏される。
■第2楽章 アダージョ・カンタービレ ハ長調 4分の3拍子、3部形式。第1部と第3部は品格と優美さをたたえる一方で、中間部はテンポを速め軽快なアレグロとなり、対比を際出たせる。
■第3楽章 スケルツォ アレグロ ヘ長調 4分の3拍子、3部形式。スケルツォといっても、ここでは優美さを失うことはない。主部には「挨拶」というにふさわしい趣がある。
■第4楽章 アレグロ・モルト・クアジ・プレスト ト長調 4分の2拍子、ソナタ形式。はずむような第1主題がチェロの独奏ではじまり、ついで4つの楽器がこれに応えていく。結尾で華やかなライマックスが築かれ、曲を閉じる。

 弦楽四重奏曲 第3番 二長調 作品18の3は6曲中最初に書かれた作品で、1788年に着手されている。したがって、この曲がベートーヴェン最初の弦楽四重奏曲ということになる。スケッチ帳でも苦闘のあとはうかがえず、すんなりと生み出された作品のようで、それだけに他に比べてのびのびしたところがあり、6曲中、もっとも屈託のない明るさにあふれている。いたるところに明るい展望のようなものが感じられるのは、当時のウィーンでの楽しい生活の反映であろうか。
■第1楽章 アレグロ 二長調 2分の2拍子、ソナタ形式。7度の跳躍からゆるやかに下降する第1主題は、いかにも屈託のないのびやかなもの。この雰囲気が全体を貫く。
■第2楽章 アンダンテ・コン・モート 変ロ長調 4分の2拍子、ロンド形式。ABABAに近い構成をとり、最後にコーダが置かれる。Aは明るく優美だがベートーヴェンらしさ希薄。Bは小刻みに動く。
■第3楽章 アレグロ 二長調 4分の3拍子、3部形式。性格はスケルツォに近い。両端部は生気にあふれ、中間部はミノーレ(短調)と記され、二短調でやや暗い雰囲気を出す。
■第4楽章 プレスト 二長調 8分の6拍子、ソナタ形式。明るく活動的な楽章で、終始流れるように動き回るが、最後はピアニシモになって静かに全曲を終える。







ベートーヴェン
by W. J. Mähler





ベートーヴェン







ベートーヴェン
by Brasius Höfel
(1812)
弦楽四重奏曲 第9番 ハ長調 作品59-3 「ラズモフスキー第3番」
 3曲からなる作品59の弦楽四重奏曲はいずれも1806年、ベートーヴェンが35歳から36歳のときに作曲された。その第1番ヘ長調の草稿には1806年5月26日着手と書かれ、翌年の2月には全3曲の演奏記録があるから、この3曲はきわめて短期間に集中して完成されたことがうかがえる。ラズモフスキー伯爵がこの作品を依頼したのは、したがって前年1805年の末頃と推察されている。
 ラズモフスキー伯爵は1752年ペテルブルグに生まれたロシアの貴族で、海軍士官として訓練を受けたのち外交官として国に仕えるようになり、1788年にウィーンで音楽愛好家として知られたトゥン伯夫人の娘エリザベートと結婚、1801年から正式にウィーン駐在のロシア大使に任命された。エリザベートの妹マリア・クリスティアーネはオーストリアの貴族リヒノフスキー侯爵の夫人であり、ベートーヴェンの有力なふたりのパトロン、ラズモフスキー伯爵とリヒノフスキー侯爵は縁戚関係にあったことになる。ラズモフスキー伯爵は裕福で金遣いが荒く、自前で豪邸を構え――1815年に焼失――、蒐集家ならびに芸術のパトロンとして名をはせていた。1808年には名ヴァイオリニスト、シュパンチヒをリーダーにして自前の弦楽四重奏団を抱え、自らその第2ヴァイオリンを担当した。そしておそらくベートーヴェンをそのウィーン移住(1792年)の初期から知っていた。
 オーストリアのヴァイオリニストにして指揮者、イグナツ・シュパンチヒ(1776年生まれ)にもここで触れておかねばなるまい。1794年からリヒノフスキー候の弦楽四重奏団を組織し、1808〜16年はラズモフスキー伯の弦楽四重奏団のリーダーを務めたシュパンチヒは、ベートーヴェンとは親しい関係にあった。彼はいまだ10代の1794年ごろ、つまりリヒノフスキー候の弦楽四重奏団を組織しはじめたころ、6歳年上のベートーヴェンにヴァイオリンを教えている――17歳のシュパンチヒが23歳のベートーヴェンにヴァイオリンを教えている図を想像するのは刺激的だ――。極めて太った人物で、その体躯はベートーヴェンが揶揄する格好の対象となった。ともかくベートーヴェンがシュパンチヒの組織する弦楽四重奏団から多くのものを得たのは明らかであり、彼自身の大多数の弦楽四重奏曲がシュパンチヒによって初演されている。ラズモフスキー3曲の初演もシュパンチヒが担当したが、この時期はまだラズモフスキー伯のお抱えにはなっていない。ちなみに、シューベルトの八重奏曲や弦楽四重奏曲「ロザムンデ」を初演したのもシュパンチヒである。
 ベートーヴェンは作品18の6曲からなる弦楽四重奏曲集を1800年に完成してからまる5年のあいだ、この分野にまったく手をつけていない。その間、ハイドンやモーツァルトの足跡、また一般に流通する音楽様式から完全に抜け出し、1802年ころから爆発的な創作期に入る。この時期の目もくらむような作品群のなかでも一段と光り輝いているのは、「英雄交響曲 作品55」(1803〜04年)、「熱情ソナタ作品57」(1804〜05年)、そして「ラズモフスキー四重奏曲 作品59」(1805〜06)であろう。けたはずれの気宇壮大さ、放出するエネルギーの大きさにおいて、ベートーヴェンにしてもこれらは例外的な作品なのだ。
 集中的に書かれた3曲からなる作品59の弦楽四重奏曲はそれぞれに独自の偉大な相貌を見せているが、3曲を比較すれば、構成の大きな広がりに特色のある第1番、短調で書かれた内攻的な第2番、明るく力強い第3番と、簡略化して表現することができよう。前2者をベートーヴェン中期の特徴的なふたつの面の徹底した顕在ととらえ、その解決点としてこの曲が登場するという見方がある。いわば弁証法における正反合の、その合に第3番が当たるというわけである。この曲は「英雄四重奏曲 Hekden-Quartett 」と呼ばれることがあるが、とくに第3楽章から切れ目なく続く終楽章でのフーガが見せる勢いとたくましさは古今未曾有といえるもので、ベートーヴェンの作品のなかで最もエキサイティングなシーンと表現して過言でない。
■第1楽章 [序奏]アンダンテ・コン・モート 4分の3拍子、[主部]アレグロ・ヴィヴァーチェ ハ長調 4分の4拍子、ソナタ形式。減和音の強奏ではじまる序奏は漠としてつかみどころがない。そこからヴェールがいきなりはがれたかのように、明るく軽快な第1主題が第1ヴァイオリンにさっそうと現れる。力強い楽節をはさみながら、曲は終始生き生きとした明るさを振りまいていく。
■第2楽章 アンダンテ・コン・モート・クアジ・アレグレット イ短調 8分の6拍子、ソナタ形式。豊かな抒情味にあふれた楽章で、明るさが支配する全曲にほどよい陰影を与えている。チェロのホ音のピチカートを伴奏に第1ヴァイオリンが奏する第1主題はやや暗く、その抒情は濃い。この主題については、スペイン由来とかロシアのものかいわれている。ドルチェの第2主題も同じく強い印象を与える。最後は全楽器のピチカートをもって終わる。
■第3楽章 メヌエット・グラツィオーソ ハ長調 4分の3拍子、3部形式。第1番、第2番ではスケルツォを用いて曲を深く刻印していたが、ここではグラツィオーソ(優雅に)の指定をもつメヌエットが置かれる。悲劇的な問題の解決により、人生の現実の意味を深くとらえた作曲者の独自の諧謔だとする見方があるが、終楽章との対比上での選択とも考えられよう。軽やかに動くトリオには「運命」の動機が見える。最後はフォルテのハ調属7和音でフェルマータとなり、そのまま終楽章につづく。
■第4楽章 アレグロ・モルト ハ長調 2分の2拍子、フーガを用いたソナタ形式。きわめて充実した、まさに無類の音楽。ベートーヴェン独自の精力的な流動性が大きな迫力をもって奔流する。第1主題はフーガ主題としてまずヴィオラに現れ、やがて第2ヴァイオリン、チェロ、第1ヴァイオリンの順で主題を受け渡し、互いに折り重りながら前代未聞の境地に突き進んでいく。全体は対位法的というより、フガートの連続で構成されており、まさに特異な楽章というほかない。再現部最後でいったん盛り上がって一息いれたあと、あらためて全楽器が8分音符を刻みつづけてpからffに達して、恐るべき迫力のうちに全曲を閉じる。

ベートーヴェン
by Johann Neidle
(1801)




ラズモフスキー伯爵
出典




シュパンチヒ
出典
弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 作品95「セリオーソ」
 ベートーヴェンが残した16曲の弦楽四重奏曲を概観すれば、6曲からなる作品18、作品59の3曲のラズモフスキー・セット、最晩年に集中的に書かれた作品127、130、131、132、135の5曲は、それぞれ作曲者の初期、中期、後期の典型的な作品群として類型化して捉えることが容易であるけれども、中期と後期の間の1809年から1810年にかけて書かれた2曲、作品74「ハープ」と作品95「セリオーソ」は、澄んだ抒情と簡潔な構成で特異な光を放っており、ベートーヴェンが歩んだ作曲過程のなかの不連続点をそこに見いだすことも不可能ではない。実際、09〜10年にベートーヴェンの創作活動は突然停滞してしまう。
 この時期、ベートーヴェンの身辺には次のような出来事があった。08年、ヨゼフィーネとの別離を経験する。09年になると、年金によって生活の一応の保障は得られるものの、ウィーンはフランス軍に占領され、彼の保護者や友人の多くがウィーンを去ってしまう。10年には大地主の魅力的な娘テレーゼ・マルファッティへの求婚が失敗し、安定した家庭生活は夢とあきらめざるを得なくなる。あらゆる障害を乗り越え自己を貫徹しようとしたベートーヴェンであっても、ここにいたって英雄期の覇気を失い、内向的になり、自己の世界に沈潜していったことは十分に想定できよう。
 しかし、こうした伝記的背景だけでベートーヴェンの方向転換は十分に説明できないとう。すなわち、08年までの数多くの傑作群において、主題展開によるソナタ様式の可能性を究め尽くしたベートーヴェンは、この時期まったく違う方向に関心を向けはじめている。それは対位法のさらなる研究と、これに関連して、作品に統一を与えるにあたっての主題展開に代わる新たな構造原理の探求であり、したがって、09年の作品に後期様式の始まりを置く妥当性が主張されるわけである。いずれにしろ、ベートーヴェンの弦楽四重奏の全作品を俯瞰するとき、09〜10年に書かれたふたつの弦楽四重奏曲が、全体のなかに深い味わいと陰影を付与しているのは疑いのないところであろう。
 作品95「セリオーソ」の草稿には、「1810年10月、友人L. v. ベートーヴェンよりツメスカル氏に捧げられ、10月に書かれる」の記入があるという。この言葉のまえには " Quartett serioso " の書き込みがあり、したがって「セリオーソ」(“まじめな”、あるいは“厳粛な”の意)の呼び名はベートーヴェン自身の意図するところだったが、どうしてかこの語は出版の際に削られてしまった。ニコラウス・ツメスカルはハンガリー宮廷長官事務局に務める役人で、ベートーヴェンはウィーン移住の1792年からツメスカルと親しく付きあい、日常の実務的な瑣事――よく調整された羽根ペンの調達先からブーツの磨き方、気にいらない雇い人の解雇方法まで――について、しばしば彼の忠告に頼らなければならなかった。ツメスカルはまた音楽に熱心な興味を抱く有能なチェリストでもあり、後になってベートーヴェンの新作のいくつかは、彼のアパートで内輪で試演されている。
 曲は凝縮された簡潔な構成を持ち、内容は知性的・内省的な広がりを見せ、情緒的な要素はいっそうこまやかさを増している。ベートーヴェンはこの曲を書いてのち15年間、第9交響曲を完成させるまで弦楽四重奏を手がけることはなかった。
■第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ ヘ短調 4分の4拍子、ソナタ形式。いきなりユニゾン、フォルテで奏される第1主題は荒々しいまでに力強く厳粛であり、ヴィオラにあらわれる第2主題は断片的だが流れるような楽想をもつ。エネルギッシュな第1主題が卓越するが、全体は透明なきめ細かい抒情味で満たされている。最後はピアニシモで曲を結ぶ。
■第2楽章 アレグレット・マ・ノン・トロッポ 二長調 4分の2拍子、ソナタ形式。不完全な再現以下をコーダとみなして3部形式と扱うこともできる。チェロの几帳面に下降するリズム音型に導かれて、第1ヴァイオリンにしっとりとした第1主題があらわれる。二短調の第2主題はフガートで書かれている。最後に減7の和音が置かれ、切れ目なく次の楽章に進む。
■第3楽章 アレグロ・アッサイ・ヴィヴァーチェ・マ・セリオーソ ヘ短調 4分の3拍子、実質はスケルツォでABABAの形をとる。セリオーソの発想を持つことから、この楽章の気分が全曲の中核として考えられたのであろう。Aは跳ねるようなリズムに特徴があり、第2ヴァイオリンが主題を受け持つBはのびやかで美しい。最後のAはピウ・アレグロとなり力強く曲を終える。
■第4楽章 序奏ラルゲット ヘ短調 4分の2拍子―主部アレグレット・アジタート ヘ短調 8分の6拍子。主部はロンド形式でABABAに近い形をとる。夢見るように開始される序奏のあと、流麗な旋律であらわれる主部Aには憧憬があふれ、続くBは2小節の短い主題からなるものの、力感を強調したものになっている。最後はヘ長調となり、激しく盛り上がって全曲を閉じる。

ベートーヴェン
by Augst von Klöber
(1818)




ベートーヴェン
弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 作品127
弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132

 「荘厳ミサ」が完成し、ついでしばらく作曲を中断していた「第9交響曲」に再び本腰を入れはじめた1822年の春、すでにベートーヴェンは作品127の弦楽四重奏曲に手をつけていた。1810年に作品95「セリオーソ」を完成して以来、弦楽四重奏に取りかかるのは実に12年ぶりのこと。そんなところへ同年11月、ペテルブルグに住むロシアの貴族にしてチェロの名手でもあった音楽愛好家、ガリツィン公爵から2曲あるいは3曲の弦楽四重奏曲を書いてほしい、謝礼は1曲につき50ドゥカーテンという依頼が舞いこんだ。「第9交響曲」の作曲と初演に忙殺されて、結局《ガリツィン四重奏曲》の第1作となる作品127は1825年2月になってようやく完成、その後ただちに次の2曲に着手したが、4月には持病の腸炎が悪化し数週間床につき、幸いに病気は快方に向い再びペンをとって7月の末に作品132が完成(作品132の第3楽章は「病気がなおった者の、神への聖なる感謝の歌」と題されている)、すこし遅れて11月に作品130の完成をみたのであった。依頼からすでに3年近くたち、作品132と130は完成後ただちに公爵に送られたものの、公爵の経済的困窮のため、少なくともベートーヴェンの生前中にはなんの報酬ももたらさなかった。
 《ガリツィン四重奏曲》と呼ばれるこれら3曲には、どういうわけか20年近くも前の《ラズモフスキー四重奏曲》との外面的な類似点を見出すことができる――ともに3曲であること、2作目が短調の作品になっていること、3作目の最終楽章がフーガになっていること(作品の完成順は作品127、132、130であるから、2作目は第15番、3作目は第13番になる)。もっとも、この第13番の最終楽章に置かれた巨大なフーガは、のちに他のものと置き換えられることになるのだが。
 1825年から死の前年1826年にかけて、ベートーヴェンが集中的に書き残した5曲の弦楽四重奏曲はベートーヴェン最後の作品群であり、ここにベートーヴェンが到達しえた最終地点が余すところなく示されている。だがその全容が誰の目にも明らかになっているというわけではない。後期のソナタと弦楽四重奏におけるベートーヴェンは音楽史上、前衛音楽の創始者と見なされるだろうとは伝記作家ソロモンの言であるが、現代においてなお、ベートーヴェンの特に後期弦楽四重奏曲が前衛音楽としてその地位を失っていないのは驚くべきことと言えよう。ここには、およそ人間という生き物が発する声の、計り知れない深さをもった相当量のものが埋蔵されいるように思われる。それを自由にしかも易々と楽しむことができるのは、情報メディアの発達に浴する現代人の特権といわねばならない。
 ベートーヴェンはこれらの弦楽四重奏曲を、同僚の作曲家や芸術家、またウィーンの音楽愛好家といった内輪の仲間たちのために書いたように見える。その初演のいくつかは少数のファンを対象に非公開で行われている。にもかかわらず、音楽編集者にして随筆家レルシュタープが1825年に書き記したところによれば、「ウィーンの最も秀でた若手の名手の何人かは、なぞめいた新作(作品127)の半公開の演奏にあたってさえ、16回、あるいはそれ以上のリハーサルを行った」という。ベートーヴェンの死の1827年以降、長い間、彼の後期弦楽四重奏曲が公開演奏されたのはごく少数にとどまる。しかし、メンデルスゾーン、ワーグナーのようなロマン派の作曲家はこれらの作品を賞賛している。出版も同様に遅れ、1826年6月に出版された作品127を除き、いずれも遺作として作曲者の死後になされた。

 作品127は5曲の後期弦楽四重奏曲にあって、もっとも明るい感じをもっており、なかでも第2楽章に置かれた長大な変奏曲が異彩を放っている。5曲のなかで伝統的な4楽章制をとっているのは、この第12番と最後の第16番の2曲のみである。初演は1825年の3月6日、当時の名高いシュパンチヒ四重奏団によって行われた。聴衆の冷淡な反応に業を煮やしたのか、ベートーヴェンはシュパンチヒの不十分な準備を非難し、ウィーン音楽院のヴァイオリン教授ヨーゼフ・ベームを説き伏せ、彼の四重奏団による再演を同じ月の26日に行ったが、こちらは成功を収めた。
■第1楽章 変ホ長調。マエストーソ 4分の2拍子〜アレグロ 4分の3拍子、ソナタ形式。マエストーソの力強い和音のよる5小節の序奏のあと、「やさしく、美しく」の指示をもつ第1主題がチェロの対位法的な美しい旋律を伴って奏される。冒頭のマエストーソ楽想はこのあと2回現れるが、いずれも楽曲展開の節目を刻む役割を担っており、したがって、この楽節に注目すれば楽章の構造をより明快に把握することができる。
■第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレ 変イ長調 8分の12拍子、序奏と主題と5つの変奏とコーダ。2小節の序奏のあと、第1ヴァイオリンが対位法的なチェロを伴って奏する主題は18小節からなる息の長いもので、その味わいの奥深さは半端でない。第1変奏では旋律は各楽器間を細かく動いていく。第2変奏はアンダンテ・コン・モート、4分の4拍子になって、チェロとヴィオラの整然としたリズムの上に、ふたつのヴァイオリンが美しい線を描いていく。第3変奏はアダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ、ホ長調、2分の2拍子。主題からかなり遠ざかるが、表出力にあふれる。第4変奏は再び変イ長調、アダージョ、8分の12拍子。第5変奏は中間に嬰ハ短調の楽節をはさみ、きわめて自由なもの。最後のコーダでも変奏を行って静かに曲を閉じる。
■第3楽章 スケルツァンド・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 4分の3拍子、3部形式。印象的なピチカートによる4つの和音ののち主部に入り、チェロに現れるppのリズミカルな主題とffのユニゾンで奏される経過主題が美しい対比をかたちづくる。トリオは変ホ長調のプレスト。
■第4楽章 終曲 変ホ長調 2分の2拍子、ソナタ形式。ただ終曲と記されているだけで速度指定をもたない。fに始まりすぐにpになる4小節のユニゾンの序奏をもつ。すべての楽章に序奏が置かれるのは珍しいが、これはベートーヴェンが意図したことかもしれない。序奏のあと、第1ヴァイオリンが示す第1主題はなめらかに動いて、どこかうつろな感じを与えるが、その後の経過主題、さらに第2主題と徐々に力感を増していく。再現部最後の2小節はリタルダンドして、そこからアレグロ・コン・モート、ハ長調、8分の6拍子の結尾に入る。トリルの長い和音の序奏で始まる結尾の主要主題は第1主題が変形されたものだが、ここでは深い情感に満ちたものになっている。印象的な結尾部を経て、大いなる充足のうちに全曲が閉じられる。

 《ガリツィン四重奏曲》の第2作、第15番作品132は、作品127の輪郭をほぼ作り上げた1824年末に着手され、作品127が完成した1825年2月から本格的に作曲が進められたが、4月には持病の腸炎がにわかに悪化、5月に保養のためバーデンの近くに移り、そこで創作力を取り戻し、ようやく7月末に書き上げられた。初演は非公開のかたちで、同地のレストラン「野蛮亭」にてシュパンチヒ四重奏団によって行われ、出席者はベートーヴェン、彼の甥カール、出版者シュレジンガー、チェルニー、スマート等だったという。10月にウィーンに戻ったのち、11月に元ラズモフスキー候四重奏団のチェロ奏者リンケの演奏会ではじめて公開演奏されて大好評を博し、同じ月に再演された。全体は5楽章からなるが、行進曲風の第4楽章は終楽章への序奏とみることもできる。第3楽章では病気回復の感謝の歌が天上的的な美しさで歌われ、内省的な高次の精神活動が全曲を貫く柱になっている。
■第1楽章 アッサイ・ソステヌート イ短調 2分の2拍子〜アレグロ イ短調 4分の4拍子、ソナタ形式。静かにチェロから起こり、次第に高音に移っていく序奏はわずか8小節だが、最初の動機は全体を支配する。ただちにアレグロの主部に入り、2小節の走句のあと、主題の断片がチェロにあらわれ、つづいて主題の全体が第1ヴァイオリンで示される。まもなくヘ長調に転じ、第2主題が第2ヴァイオリンにあらわれる。最後は力強いクライマックスを経て明快に曲を閉じる。
■第2楽章 アレグロ・マ・ノン・タント イ長調 4分の3拍子、3部形式。明るくなごやかに進むスケルツォでメヌエット的な性格も持つ。トリオでは、第1主題を第1ヴァイオリンがA線の開放弦をオルゲルプンクトにして高い位置で刻み、8分音符で動く第2主題は「12のドイツ舞曲」(1800年)からの自由な引用だという。
■第3楽章 モルト・アダージョ リディア旋法 4分の4拍子、変奏曲。楽章のはじめに「病気がなおった者の、神への聖なる感謝の歌、リディア旋法による」と記されている。さらに「この曲は変ロの代わりにいつもロ音もつ」との注釈があるが、これはリディア旋法がハ長調の音を使いながらヘ音を主音とする音階であることを説明している。全体は、コラール風の荘重な感謝の歌と、「新しい力を感じつつ」と記されたアンダンテ(二長調、8分の3拍子)の部分をふたつの主題とする変奏曲の形態をとる。つねに崇高な感情をたたえ、最後は静かな結尾に入る。
■第4楽章 アラ・マルチア・アッサイ・ヴィヴァーチェ イ長調 4分の4拍子、2部形式。行進曲風の急速な部分につづいて、いきなり表情を変えてイ短調のピウ・アレグロになる。そこから速度を自由に変化させてプレスト、ポコ・アダージョとなって、そのまま終楽章になだれこむ。ピウ・アレグロ以下の部分は器楽曲としては例外的なほどにレチタティーヴォ風なものであるが、次の終楽章がもともと「第9交響曲」の終楽章として構想されたものであることを知れば、「第9交響曲」終楽章の冒頭部分との相関関係を指摘しうるかもしれない。
■第5楽章 アレグロ・アッパッシオナート イ短調 4分の3拍子、ロンド形式。この楽章は前述のとおり、「第9交響曲」の終楽章とすべく考えられたものである。2小節の序奏についで、第1ヴァイオリンが「熱情的」に奏する第1主題は、質素な外形とはうらはらに、内に熱くたぎるような情熱を秘めている。最後は速度を上げてプレストになり、第1主題を展開して明るいイ長調の結尾に入り、全曲を閉じる。

文・田村敏久(アプローズ453)

ベートーヴェン



ベートーヴェン
by Franz Klein
(1812)



ベートーヴェン
by W. J. Mähler



ベートーヴェン
by J. Stieler



ベートーヴェン
by W. J. Mähler

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